From Chuhei
『証言 沖縄スパイ戦史』

2020年4月4日の朝日新聞の書評欄にこの本の書評が載った。日本近現代史 研究家の戸邊秀明先生が次のように書かれていた。「75年前のちょうど今頃、 沖縄本島の北部の山中で、米軍にゲリラ戦を挑んだ少年兵たちがいた。10代 なかばの彼ら護卿隊(ごきょうたい)の被害は、同年配のひめゆり学徒隊や鉄血 勤王隊に比べてずっと埋もれてきた。この「秘密戦」を、生存者への永年の聞き 取りのすえ、映画にした監督が、上映後の追跡取材を大幅に盛り込んで本書を完 成させた」

この「永年の聞き取りを、映画にした監督」というのは、女性のジャーナリスト で映画監督、この本の著者である三上知恵さんのことである。すでに大矢英代氏 との共同監督でドキメンタリー映画「沖縄スパイ戦史」を発表していた。そして、 戸邊先生の書評は次の言葉で終わっていた。

「秘密戦の全体像。その本質は、国を守るはずの戦法が、故郷を破壊させ、密告 を奨励し、『住民同士の殺し合い』にたどりつく矛盾だ」そして、「これではまる で内戦だ。冷戦終結後、世界中の幾多の内戦を目にしてきた。だが、75年前、 それはすでに沖縄で起き、しかもこの列島全体で準備されていた。そこから地続 きにある今に目をつぶり、『強い軍隊に守ってもらいたい』という幻想に、 いつまでしがみつくのか。著者の、その澄んだ怒りと警告に、ぜひふれてほしい」

75年前、私も戦闘帽をかぶり、ゲートルを足に巻き、「甲陽学徒隊」の腕章を 腕につけ学徒動員で働いていた。動員前は配属将校に殴られながら毎日校庭で軍 事訓練を受けていた。アメリカ軍が日本本土に上陸してきて決戦となれば、当然、 沖縄の鉄血勤王隊のような、中学生による戦闘隊が一斉に出来て、戦闘に参加した であろうことは間違いない。そしてゲリラ戦要員として、10歳代なかばで沖縄の 護卿隊のような遊撃隊に選抜されて加わる者も出てきたであろうこともまた間違 いないと思った。

私は早速、ネットで『証言 沖縄スパイ戦史』を発注した。新型コロナウイルスで ホームステイが求められていたので、この時こそ絶好の読書の時期だと思った。 そして届けられた本は749ページ、かなり分厚い本であった。そのうちの327 ページまでは、第一章「少年ゲリラ兵の証言」である。75年前の沖縄戦の当時14 歳から18歳までの「護卿隊」の少年兵士で、今、生き残っている21名の人達に、 著者の三上智恵さんが一人ずつ丁寧に面接して、その活動の実態を聞き取った証 と説明だった。次の407ページまでは、第二章「陸軍中野学校卒の護卿隊の隊長 たち」で「護卿隊」を率いた村上治夫第一護卿隊長と、岩波壽第二護卿隊長に ついて三上智恵さんが調べたその生い立ちから経歴、沖縄での行動記録が明らか にされていた。

次の442ページまでは、第三章「国土防衛隊―陸軍中野学校宇治分校」で、沖縄 だけではなく、秘密裏に全国各地で準備されていた少年ゲリラ兵部隊があったとして、 その教官だった野原正孝さんと、訓練を受けた岐阜の少年兵だった小森智さんの、 貴重な面接による証言の記録であった。そして、次の566ページまでは、第四章 「スパイ虐殺の証言」で、沖縄でアメリカ軍が上陸し基地を固め始めた頃、山地に 追い込まれた日本軍が住民をスパイとして虐殺する事例が数多くあった。その当時 のことを経験して今も生きている8名の方たちと個別に面接して、その証言を聞き 取った記録であった。そして、次の676ページまでの、第五章「虐殺者たちの肖像」 では、沖縄本島北部で、住民虐殺の首謀者としてよく名前が挙がる日本軍人三人に ついて、次第にわかってきた、知らなかった背景、当初の予想を裏切るような人物像 を検証して、彼らの残した戦争の足跡を追跡している。そして最後に749ページ で終わる、第六章「戦争マニアルから浮かび上がる秘密戦の狂気」で、先の戦争の 末期、多くの「戦闘教令」がだされたが、次第にその内容は暴走し、「国民義勇戦闘 隊教令」(1945年6月24日)では、65歳以下の男性、45歳以下の女性の すべてが戦闘組織に参加させることが出来るようになり、そして戦闘を行う場合は 「攻撃精神を発揮し肉弾をもってでも敵を撃滅するべし」として、全国民のほとんど の男女ともに、戦闘のすえの玉砕突撃体制の参加が決められたこと、などが記されて いる。

そしてこの章の終りには、正義の戦争だと信じ込まされた国民が、最後には武器と 同等の消耗品にされ、守られる対象ではなかったことは事実である。このことを小 学生でもわかる史実として包み隠さず教える必要がある。そして癒えることのない 禍根を残し、心も身体も引きちぎられていくのが戦争であるということをもう一度 捉えなおして欲しい。「強い軍隊がいれば守ってもらえるという旗」を掲げた泥船に、 二度と再び、乗りこまないために。と、いう言葉で結ばれていた。

戦時中、陸軍中野学校というスパイ技術の養成学校があった。創立されたのは19 38年で、予備士官学校出身の幹部候補生の将校と全軍各隊の成績優秀な下士官が 集められ、厳重な考査選抜を受けて、それを通過した俊英とされる者だけが選ばれて、 厳しい訓練を受けた。先の大戦が始まり戦局の推移につれ、各国でスパイとなって の秘密工作活動の訓練から、やがて、激戦地区の游撃戦、ゲリラ戦術、残置諜者要員 養成へと教育される任務の内容は変わっていった。もっとも、戦時中はこのような 学校があることは全くの機密で、私も知ったのは戦後のことである。

1944年9月、アメリカ軍の上陸に備えて、この陸軍中野学校出身者42名が 大本営直属の特殊任務要員として沖縄に派遣された。その内、敵が上陸した後で ゲリラ活動をする遊撃隊として13名が沖縄本島に配置された。他に、宮古島、 石垣島、西表島などに配置され情報活動に従事する者や、与那国島、久米島, など周りの島に離島残留諜者(有名になったルバンク島の小野田寛郎少尉と同 じく、離島に残って情報活動をする者)として配置された者たちもいた。沖縄 本島の遊撃隊は2つに分かれ、第一護卿隊7名は、大隊長を村上治夫中尉として、 本島北部の多野岳と名護岳を配置場所と決めた。第二護卿隊6名は、大隊長を 岩波壽中尉として、本島中部の恩納岳を配置場所と決めた。そしてそれぞれ地元 から選んだ少年たちを召集して隊員として加え、厳しく遊撃戦の訓練をした。彼ら は主として国民学校高等科を卒業して、青年学校に入ったばかりの者であった。 第一護卿隊は4つの中隊に分かれ総勢612人、第二護卿隊は3つの中隊に分 かれ総勢390人となった。

1945年4月1日、アメリカ軍は本島中部西海岸に上陸、読谷村北飛行場と 嘉手納の中飛行場を占拠して、南部方面と北部方面に分かれて進撃を開始した。 第一護卿隊は多野岳・名護岳・乙羽岳に陣地を置き、敵の進撃路の橋の爆破、 待ち伏せ攻撃、敵の燃料庫の爆破など遊撃戦を展開した。またアメリカ軍の拠 点に使われるという理由で真喜屋、稲嶺、源河などの集落に火をつけて回った。 隊員は時には軍服を脱ぎ、住民と同じ平服に地下足袋をはいて行動した。 6月23日、沖縄守備軍最高指揮官牛島中将が、摩文仁の軍司令部で 自決して、日本軍の組織的な戦闘は終わった。7月初めに村上隊長は第一 護卿隊を解散し、少年兵たちを自宅に帰すが、隊長らは終戦後も名護岳 付近に潜伏していた。が、1946年の1月2日に下山している。第一 護卿隊は91名の戦死者をだした。

第二護卿隊は中央部にあるもっとも高い山、恩納岳に陣地を置いた。アメ リカ軍が最初に占拠した北飛行場、中飛行場の設営部隊などの日本兵が大量 に恩納岳に敗走してきたので岩波隊長は彼らも指揮下に置いて、少年兵たち も一緒に戦った。激しい攻防となり、犠牲者も多くなった。夜、敵の占領地に 斬りこみ隊として夜襲をかける兵士と一緒に、少年兵たちも何回も潜り込んで 時限爆弾を仕掛けて帰ってくることを繰り返した。糸満の海人(うみんちゅ、 漁師)の子供の姿、赤い褌(ふんどし)に着物を羽織って、アメリカ軍の捕虜 になり、夜になるとその陣地に積まれていた燃料のドラム缶に火をつけて大炎 上させ、抜け出して、翌日また避難民にまぎれて、アメリカ軍から食料を もらって帰ってくるというようなこともした少年兵もいた。1945年6月 2日、恩納岳を離脱、動けなくなった傷病兵はそのまま残し、夜になると山中 を北に進み、東村の有銘(あるめ)に到着し、その山中に軍服や武器を埋めて 7月16日、隊を解散して隊員を帰還させた。岩波隊長、中隊長らは、なお 山に潜伏していたが、10月10日、下山投降した。第二護卿隊は71名の 戦死者をだしている。

私は証言を読みながら、1945年の4月から7月、沖縄戦のあったこの時、 私の通っていた中学校のあった甲子園の周辺を思い出していた。甲子園球場 の東南一帯は海軍の飛行場が占めて掩蔽壕には戦闘機が隠されていた。球場 のすぐ北西の中学校には、陸軍暁部隊が駐屯してきて、校舎建物を接収し、 動員で働いていない生徒は、配属将校により、銃剣術訓練、匍匐訓練、手榴 弾投擲訓練などを受けていた。甲子園から北西に見える甲山には、その山麓 の多くの場所に海軍大阪警備府により、深い地下壕が掘られつつあった。 アメリカの資料によると、日本本土上陸作戦は1945年11月からオリ ンピック作戦と称して77万の兵員により行われる予定だったといわれて いる。8月14日に決定し15日に発表された日本のポッダム宣言受諾が 6か月遅かったら、私も甲山周辺の山にひそんで、遊撃戦に加わり沖縄の 護卿隊と同じような戦いをしていた、で、あろう姿が頭に浮かんだ。実際 アメリカ軍が関西に進駐してきた時は飛行場の前の鳴尾の海岸に、多くの上陸 用舟艇が戦闘さながらに乗り付けたことからも、甲子園から伊丹飛行場、甲山 周辺が本土決戦の戦場の一つになった可能性が高い場所だったと、私は今でも 思っている。

本土の決戦に備え、14歳から15歳の少年を集めて「国土防衛隊」という ゲリラ活動を展開する組織があったことは、その教官を養成する陸軍中野学 校宇治分校が京都の宇治につくられて、教官になった人と、その指導を受け 沖縄戦の末期、スパイ疑惑により、多くの住民が虐殺されたことも、この本 の証言により明らかになった。私はアメリカ軍が本土に上陸し、本土決戦が 長引いて本土の各所がアメリカ軍の占領地と日本軍の遊撃隊がひそんで立て 籠もる秘密の陣地に分かれた場合、生き残ってアメリカの占領地でその軍政 に従っている住民は、みんなスパイに見えるのではないかと思う。その隠れ 場所を敵に教えられるという怖れもある。そこにスパイ疑惑による住民への 殺し合いが、本土決戦の場合でも十分に起こりえたのではないかと思った。

私がこの本を読んでしみじみと感じたことは、先の大戦では、何の補給もせず 9万人の兵を2千㍍級の山の連なるインパールに無謀に送りこんだり、3千人 が乗艦した戦艦大和を特攻として出撃させたり、している全く狂気の日本帝国 陸海軍に無条件降伏を納得させ、ポッダム宣言を受諾して、彼らの主張して いた本土決戦に至らなかったことが、せめて良かったことだと実感できた ことである。

(2020年6月11日)

********
宙 平
********